弔事・謝辞

平成27年10月27日 病院葬での弔辞・謝辞を掲載します。(掲載は式次第の順です)

【弔辞】レニア会 名誉理事
村野 倫教 様

 途中でお言葉を続けられなくなった村野名誉理事の、深い悲しみのお気持ちが伝わってまいります。
 今日は武谷先生のお別れ会におきまして、皆さんの代表としてお話させて頂くことを、篤くお礼申し上げます。 どちらを向いて良いかわかりませんが、これからは先生は天国で頑張ってもらいたいと、こういう風に思っておりますが、まだまだ私はもうちょっと頑張って生きたいと思います。皆さんもよろしくお願いします。

 先生は立派な人でした。これからはもう、涙が出てきてなんとも言えません。すみません、申し訳ない。先生は立派な人で、昭和25年に私の家へ来て「この土地を欲しい、病院を作りたい」とおっしゃいました。それでうちのおじいさんと会いました。それで「あの土地も全部やる」って言ってたんです。院長も二十七、八歳のお若い歳で来られて。

 申し訳ない。先生ごめんね。先生と会ってもう65年も経ってるんだ。今一度お話ができればよかった。もう悲しくて判らなくなってしまいました。申し訳ない。

平成27年10月27日
医療法人社団レニア会 名誉理事
村野 倫教

【弔辞】医療法人社団レニア会 理事/医療法人社団弘善会 ラビアンローゼ 施設長
渡邉 洋

 謹んで、お別れのご挨拶を申し上げます。 母とも姉とも思っておりました先生が亡くなられて、私の心に大きな穴があいた様な気がしております。

 振り返って見ますと、先生に、はじめてお逢いしたのは、四十数年前、武谷病院の耳鼻科の医師が、退職されるので、順天堂大学医局の先輩であった先生が、医局に耳鼻科医を求めて来られたのが御縁のはじまりでした。 医長として住田先生が決まりました。私は本当は、武谷病院に来る筈ではなかったのですが、運命のいたずらと云いましょうか、武谷に行くように云はれた一人の先生が拒んだので、急遽私に決まりました。当時私はまだ経験が浅く、半人前の耳鼻科医でしたので、不安でしたが、住田先生の指導で、何とか勤める事が出来ました。その後、住田先生が、江東病院に行かれ、私は医局をやめて医長になりました。当時は近隣に耳鼻科が少なく、1日に外来は二百人を越して、大変忙しかったのですが、ピニロピ先生が、色々気を遣って助言を下さり、励まして下さったので、何とか乗り切る事が出来たのは、先生のご指導のお蔭と、感謝しております。 先生は又、職員の家族にも、大変気を遣って下さり、クリスマスパーティーを、外来の待合を使って家族を招き、盛大にやって下さった事は、今でも、私の娘達の楽しい思い出になっている様です。

 武谷病院に四十年近く働いておりますと、楽しい事ばかりではなく、いやな思い出もあり、全関労なる組合の者が、病院に入り込み一時は、病院がどうにかなるのではないかと思はれました。先生の御心痛は、いかばかりかと思ったのですが、非力な私には、どうする事も出来ませんでしたが、職員の心が一つになり、無事裁判に勝って、元の病院に戻りほっとしました。

 私は数年勤めたら、何處かで、開業するつもりでいたのですが、先生の元で働いている内に、先生の患者さんに対する真摯な態度や、やさしい心遣いに接する内に、先生の虜となってしまい、開業はやめて、ずっとついて行こうと思い、停年まで勤めさせて戴きました。今でもレニア会の一員とさせて戴いております。 ありがとうございました。ご冥福をお祈り申し上げます。

平成27年10月27日
医療法入社団レニア会 理事
医療法人社団弘善会 ラビアンローゼ 施設長
渡邉 洋

【弔辞】医療法人社団レニア会 理事/きよせの森コミュニティクリニック 院長
風間 広仁

 レニア会理事長 武谷ピニロピ先生の病院葬にあたり、職員を代表し、謹んでお別れの言葉を述べさせていただきます。

 ピニロピ先生、私には残念ながらあなたの薫陶を直接お受けする機会がございませんでした。このような者が職員を代表して弔辞を述べさせていただくことに、いささかためらいを感じておりました。しかしながら、私のような職員にとってさえも、先生がかけがえのない存在としてその精神の中で生き続けておられる、ということを是非ともお話しておきたいという思いが強くなり、この役割をお引き受けするに至ったことを、冒頭申し述べておきます。 先生を亡くされた御遺族、御親族の方々の胸中は、まさに悲嘆と断腸の極みかと存じますし、多くの職員も、精神的支柱であった先生を失った衝撃に、深い落胆や悲しみを覚えたものと推察いたします。

 では、先生の訃報に触れたそのときに、私自身はどのように感じたのか、という話から始めさせていただきます。最近読みました本の中に、岩波書店元社長の大塚信一さんが著した『宇沢弘文のメッセージ』があります。その最後は次のように締め括られております。「私は、宇沢の訃報に接したとき、不思議なことに悲しみの思いに浸されることがなかった。私の胸一杯に広がったのは、宇沢に対する深い讃嘆と敬意の念であり、尽きぬ感謝の思いであった。」文中の宇沢を、ピニロピ先生と置き換えますと、まさにこの度の私の心境をぴったりと代弁してくれる表現となっております。宇沢は、高名な数理経済学者でしたが、社会をよりよくするためには何が必要かを常に考え、環境問題や教育問題などの分野でも実践的な取り組みをした方でした。大塚さんは、「宇沢の場合、その人柄と学問は一体化したもので、両者を切り離すことはできない……この点にこそ、宇沢の仕事の偉大さと素晴らしさがある」と評しておられます。

 ピニロピ先生、あなたの場合、あなたのお人柄と医療に向かう姿勢が完全に一体化していた、と私は思うのです。この点で、あなたは稀有な存在であり、“深い讃嘆と敬意の念”を喚起せずにはいないのであります。先生の生前のお姿を垣間見るには、『50年誌』が主たる情報源になりますが、最も深く私の心に染み入ったのは、患者様方から異口同音に発せられる、「ピニロピ先生は偉大な方だった」という言葉の方でした。 『50年誌』でも例えられているように、先生の事績から、多くの方が「赤ひげ」を連想するであろうことは想像に難くありません。山本周五郎作『赤ひげ診療譚』の主人公である、赤ひげこと新出去定は、小石川養生所の医師でありますが、貧しく不幸な人々の救済を願い、医師として最善を尽くす人物として描かれております。ご存知のように、赤ひげは、多くの含蓄に富んだ言葉を発します。これらの言葉はあたかも先生から発せられたような感覚にとらわれますし、貧しくも懸命に生きている人々に向けられた、先生の優しく暖かい眼差しを想起させます。性別と時代設定を変えれば、そのまま先生の物語になりそうであります。

 なぜ、先生は、私に“深い讃嘆と敬意の念”を喚起させるのか? もう一つの理由を、別の局面からアナロジー的思考でお話しさせて下さい。 先生は、武谷三男先生が主宰されていた『ロマンロランの会』に参加されていたそうですね。ロマンロランはベートーベンに深く傾倒しておりましたから、会の中でベートーベンについて語り合われたり、作品を共に鑑賞されたりしていたものと想像いたします。 先生はベートーベンをあまり好まれなかったようですのでお叱りを受けるかもしれませんが、先生の生涯がベートーベンのある楽曲に象徴的に表現されているように思えてならないのです。その曲とは、最後のピアノソナタである第32番ハ短調作品番号111です。私が最も愛する曲であり、自分自身が生涯を閉じるとき聴かせて欲しい曲でもあります。対照的な2つの楽章から構成され、苦悩から歓喜へ、暗闇から光明へ、此岸から彼岸へ、などと形容されます。第一楽章は、ロシアから来日されるまでの壮絶な体験を象徴しているように感じられますし、第二楽章アリエッタ変奏曲の展開は、日本での医師としての歩み、すなわち武谷病院からきよせの森総合病院、さらにアルテミスウイメンズホスピタルへの発展を導き、そしてやるべきことをやり遂げ静穏のうちに息をひきとられる、という生涯とぴったり符号するように思われるのです。 また一方で、音楽評論家吉田秀和は、第二楽章を「この変奏曲は、あまりにも純粋で、個人的恣意がまったくしめだされている」と評しました。「あまりにも純粋で、個人的恣意がまったくしめだされている」というこの曲の崇高さこそが、表面上の類似性を超え、先生を想起させずにはいない理由であると私は直観したのです。 思い起こせば、ベートーベンはリベラルで進歩的な思想を持ち、哲学者カントを尊敬していたとされます。カントは、「あらゆる人格を目的として扱い、決してたんなる手段として取り扱うことのないように行為せよ」という定言命法こそ人類普遍の道徳法則であり、この法則にしたがうように自分を律することが、真の「自由」なのだ、と教えます。ピニロピ先生はこの真の自由の境地に到達されたのだと思わずにはいられません。先生が、私にとってかけがえのない存在となり、私の“深い讃嘆と敬意の念”が悲しみを超越した理由がここにあります。

 生命誕生から38億年の歴史がヒトゲノムの中に刻み込まれているように、先生は、私達の精神の中でゲノムとして存在し続けます。人類に共通のゲノムが多様な人間を生み出すように、先生のゲノムDNAもそれぞれの職員の中で多様な作用を発し続けることでしょう。 ピニロピ先生、ご安心下さい。患者様のために尽くす、というあなたから授かったDNAの根幹部分は、絶対に変異を受け付けません。私達職員一同、明日から患者様のため、一致団結して診療業務に励むことが、あなたのご遺志にこたえる道と信じております。どうか安らかにお休み下さい。そして、ときどき私たちの仕事ぶりをお見守りください。

平成27年10月27日
医療法入社団レニア会 理事
きよせの森コミュニティクリニック 院長
風間 広仁

【弔辞】きよせの森コミュニティクリニック 眼科看護師
藤田 郁子

 ピニロピ先生、藤田です。職員を代表しまして謹んでお別れの言葉を申し上げたいと思います。

 先生がご入院中何度かお見舞いに伺い「ああ、お元気だ」と安心していました。でも、最後のお見舞いの2日後でした 先生の訃報を聞いたのは。 それからは深い落胆と悲しみでいっぱいです。

 私が当時の武谷病院に入職した時、先生は50代後半だったと思います。 眼科は大変だよ。院長先生は怖いよ。とまわりから聞かされていましたが、 いいえ先生はやさしく、女赤ひげ先生でした。

 先生は患者さんの「眼」だけではなく患者さん全体を診ていました。 積極的に治療しようと思っている患者さんには、ご自分の時間を割いて通院と私生活が両立できるようにされていましたね。 糖尿病の患者さんには、 栄養指導もかねて調浬法も紹介もしていましたね。そんな様子をみて、私は先生はお料理もするんだと感心していました。 そんなとき、私が息子の幼稚園のお弁当作りが大変 とこぼすと、翌朝自宅に「藤田君、まあこのお弁当作ってきたぞ」と届けてくださいました。もうびっくりしました。

 先生は私にとって、尊敬するとても大きな存在です。そんな先生を失ってもぬけの殻になりそうです。 これからも私たちの仕事ぶりを見守ってください。そして時には、無言の叱咤と激励を送ってください。 先生のこれまでのご指導に心より感謝いたします。 どうか安らかにお眠りください。

平成27年10月27日
きよせの森コミュニティークリニック
眼科看護師
藤田 郁子

【葬儀委員長挨拶】医療法人社団レニア会 理事/独立行政法人 労働者健康福祉機構 理事長
武谷 雄二

 医療法人社団レニア会理事長であられた故武谷ピニロピ先生は去る8月8日御逝去されました。すでに密葬の儀を近親者のみで済ませ、本日は病院葬という形でレニア会の職員ならびに生前ご厚誼を賜った方々でピニロピ先生を偲び、ご冥福をお祈りしたいと存じます。なおわたくしはレニア会に理事という立場でレニア会とのご縁を得ており、大変僭越ではありますが、葬儀委員長を務めさせていただくこととなりましたので、よろしくお願い申し上げます。またご参列の皆様にはご多様にもかかわらずご会葬いただきありがとうございました。なお本日10月27日は先生の誕生日であります。御在天の先生はすでにお年をとることはありませんが、今日の日をどのようにお迎えになられているのでしょうか。

 さてピニロピ先生はかねてから療養中とお聞きしておりましたが、改めて先生の訃報に接しますと齢95歳という天寿を全うされたとはいえ、誠に惜しみても余りあるものであります。今更ながら先生の偉大さを痛感いたし、レニア会の職員一同にとってかけがえのない財産を失ったことになり、痛惜の念に堪えません。一方では、レニア会を創設され、66年後の現在、開院当時とは隔世の感があるような病院にまで発展させてこられた先生の筆舌に尽くしがたいご努力と信念、そして数々のご苦労を思いますと、ひたすら感謝と崇敬の気持ちが沸き起こってまいります。

 どんな方でも人生はその人特有のものであり、自分では図りがたい運命というものがあります。しかしながら、ピニロピ先生ほど波乱万丈な運命をたどった方は滅多にはおりません。ロシア革命と太平洋戦争という世界を震撼させるとてつもないできごとに2度も遭遇し、過酷な運命に翻弄され身を任せざるを得ませんでした。当然ご自身の自由意志で事故の将来を選択できる余地の極めて少ない境遇でしたが、常に自分の人生に真剣に向き合い、自らの手で運命を切り拓かれ、輝かしい人生を完成されました。まさにピニロピ先生が駆け抜けた人生そのものは、創造力のたくましい小説家でも描けないほど起伏に富んだ壮大なドラマでありました。

 ピニロピ先生の誕生からして数奇なドラマの始まりを予感させるものでありました。ロシア革命から2年後の1919年に、ソビエト新政権に追われ、ウラジオストックからハルビンに向かう汽車の中で産声をあげました。祖国が定まらない状況でこの世に生を受けたことになります。先生には7人のお姉さまがおられましたが、いずれの方も先生の誕生前にすでに病死していました。祖国を離れた先生のご一家は動乱期にある中国のハルビンに移られ、そこで弟様が生まれました。お父様は日本に単身で渡ったため、先生はお母様と弟との3人で、しばらくハルビンで暮らしました。その後お母様はお父様が住んでいる日本に移られたため、先生は修道院に預けられ生涯修道女としてハルビンで暮らすことになろうとした矢先にまたもや運命の女神の心変わりにより、突然日本にいるご両親のもとに引き取られることになりました。またハルビンでは唯一の身内である弟との死別という悲劇に襲われました。兄弟9人のうち元気に育ったのは先生のみとなり、運命はどこまでも無慈悲でありました。

 来日された先生はご両親と会津若松で過ごされ、尋常小学校、高等学校と進み、言葉のハンディーを克服され、勉強でも次第に頭角を現しました。はじめは教師の道に進むことを考えていたようですが、親友の突然の死別という悲運に衝撃を受け、将来を医学に捧げる決意をされました。先生はこれまでの何回となく無常な運命に打ちひしがれてきました。何とか人間の英知で過酷な運命の定めに抵抗し、克服できないかと悩みぬいた末に、医師となり病気で悩める人を救済することが自分の天命と悟られたようです。医学を学ぶことにはお父様の猛烈な反対に会いましたが、先生の意思と情熱は父親の反対にも屈しないほど強固なものでありました。

 先生は難関である東京女子医専に見事合格され、医学の勉強に没頭されました。1943年、まさに日本中が戦争一色に染まっていた時期に卒業され医師としての人生を歩み始めました。その翌年大変ご高名な物理学者、武谷三男博士と結婚されました。しかし二人の門出は戦争中ということで、多難な新婚生活を送られ、ご苦労は創造を絶するものであったようです。

 先生は順天堂病院で眼科学を研修するかたわら清瀬の東京病院で手術の手伝いをされ、それがきっかけとなって1949年、30歳のときに清瀬の地で総勢6名のスタッフで診療所を開設することを決断されました。開院のための資金繰りには大変苦労されたとのことであります。診療所は眼科を標榜していたが、虫垂炎の緊急手術をはじめあらゆる救急を受け付けました。地域住民の医療の要求に応えるべく身を粉にして昼夜を問わず働き続けました。先生は患者を救うということを何事にも優先させる姿勢を生涯貫かれました。

 1957年、木造2階の入院棟を増設、1965年には26床となり病院に格上げされました。 1967年、鉄筋の2階建ての新病棟完成、スタップは68名となり、1975年、鉄筋の 3階建て病棟が完成し、短期間のあいだに小さな診療所を地域には欠かせない病院に発展させました。先生は必ずしも病院を大きくすることを目指されたわけではなく、地域医療に貢献したいという一途な思いが地域住民からの信頼を得て、結果として病院の規模が拡大したものであります。
病院の発展は得てして巧妙な病院経営戦略が前提となります。しかしながらピニロピ先生は経営にまったく無頓着で、貧しい患者さんからは医療費をとらず、逆に薬を無料で提供されていました。生活が苦しい時に医療費の支払いを免除された患者さんが、後に病院前の道路を無料で整備するといったこともあったと伺っております。また診療時間帯を患者の都合に合わせ、患者の家族、生活にまで細やかな配慮をされていました。このため病院は大盛況であったが、経営は綱渡りであり、私生活まで犠牲にされました。まさに医師と患者の本来あるべき関係が築かれていて、医は仁術ということを行動でもって体現されていたといえるものであります。

 先生はいかなる時でも自分の置かれた環境の中に魅力や面白さを積極的に見出す才能、 適性がありまた意志強固、意地っ張り、妥協をしないということが先生のご性格として語られております。医療人としての痛ましいほどすさまじい職業意識が先生のあらゆる行動を支配しており、それにいささかとも反する考えは自他共に容赦しなかったというものであります。そのような行動原理が周囲から先生のご性格としてみられていたのでしょう。 先生の生き方は誠に明快であり、医師としての理想像を追求されたといえるのでしょう。 当時の武谷病院の理念である「私たちは医の良心のもとに清瀬の人々が安心して眠ることができる病院を作る。」ということは、単に目指すべき目標ではなく、先生の生き様そのものでありました。さらに先生は常日頃「腕がたっても奢るなかれ」「患者を治すと考えるべからず」「知識をたゆまず身につけろ」ということを肝に銘じておられました。常に漫心を戒め、謙虚に学ぶという姿勢を自らに課しておられたのであります。

 先生は職業人としての厳しさを求める一方、職員に対しては情愛をもって接してこられました。職員の福利を優先して自分は後回しにするということがしばしばであったとうかがっております。レニア会の発展の背景には、とにかく患者本位の医療を追求するということとともに、先生の職員に対する思いやりによって、職員一同が病院のために力を尽くすことに駆り立てられたということがあったのでしょう。さらに先生はどんな人でも一心に立ち向かえば、無限の可能性が開けてくることをお教えいただきました。

 さてピニロピ先生が設立されたレニア会は、はじめて先生不在で歩んでいかなければならないという大きな試練を迎えました。私どもはとてつもなく大切な方を失いましたが、先生は行動でもってこれから私たちの進むべき方向を示してくれました。医療人としての先生の生き方そのものが、これからレニア会を支えて行く職員にとって大変貴重な道しるべになるものであります。その意味ではレニア会が存続する限り先生の魂は生き続けることになります。これからはピニロピ先生がいつも見守って下さるという思いで、レニア会を支え、さらに発展させていくことがあとに残されたものの使命であります。

 最後になりますが、医療人とはかくあるべきということを、身をもって示された先生の生き方や地域医療に身を粉にして尽くされた偉大な功績をたたえ、先生の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げ、病院葬にあたってのご挨拶といたします。

平成27年10月27日
医療法入社団レニア会 理事
独立行政法人 労働者健康福祉機構 理事長
葬儀委員長
武谷 雄二

【謝辞】医療法人社団レニア会 副理事長/理事長代行
武谷 典子

 医療法人社団レニア会 副理事長の武谷典子でございます。 ご来席の皆様、本日は大変お忙しい中、母、武谷ピニロピの病院葬にお越しくださり、まことにありがとうございます。皆様のご厚情に深く感謝し、故人に代わり心よりお礼申し上げます。

 今年の夏も、暑い日が続きました。猛暑の中の8月8日、母は、入院療養しておりました複十字病院で、眠るように静かに、95年の生涯を閉じました。延命治療は望まず、人生の最期の時を自身で決めたかのように、一切の物を口にすることをやめ、天国へと旅立ちました。

 私の母との出会いは、平成7年2月、武谷病院に産婦人科病棟婦長として就職した時です。その後は、上司であるとともに、義理の母として接することになりました。 当時75歳であったピニロピ院長は、凜として気高く、バイタリティにあふれ、日々の診療にあたっていました。科目が違うので、臨床での関わりはあまりありませんでしたが、新生児を診察に連れて行くと、「しっかり押さえないか!」とピシリと言われ、「これが噂の怖い先生か」と思ったものです。 その反面、義母としては、大変やさしく接してくれました。干渉されることもなく、お友達のように楽しくおしゃべりしました。病院からの帰宅時には愛車パオの助手席に乗せてもらうのが日課のようになりました。

 ロシアの人はウオッカが血に流れているのか、お酒をご一緒すると、半端でなく強いのに驚きました。お酒に加え、タバコは50本入りの缶入りショートピースを一日に一缶、食事は夕飯の一食だけ。とてもお医者様にはお話できない生活態度でしたが、健康を害することはなく、驚くほど丈夫な方でした。 しかし、年を取るにつれ、徐々にお酒に弱くなり、酔うと足下がふらつき、大腿骨や腕などを度々骨折しました。その都度、強靱な精神力で快復し、職場に復帰しました。80歳を過ぎた頃、キッパリと禁酒し、大好きだったタバコも止めて、健康を回復しました。私は、母の意思の強さに感激したのを覚えております。 平成13年に脳梗塞を患い、後遺症は残らなかったものの、診療を継続することが難しくなり、自宅静養をはじめました。

 私は、若輩者ではありましたが、静養中の理事長を代行し、十数年、微力ながら、レニア会の維持と発展のために努めて参りました。昭和から平成になった頃、武谷病院は試練の時を迎えたと聞きます。私が副理事長になった頃は、すでに危機的状況を乗り越えた頃でした。その後は、多くの方々にお力をいただき、いくつもの幸運に恵まれ、新しいクリニックや病院を作るにいたりました。 大切にしなければならない規範はすべて母が示してくれました。今後も、母の教えを胸に、次の時代のレニア会のビジョンを作り、実現していくことに邁進したいと決意をあらたにしております。

 物語のような数奇な人生を歩んだ母ですが、沢山の仲間に囲まれ、とても充実した一生だったと、満足していると思います。母の偉大な物語に、脇役の一人として加わることが出来たことを光栄に思っております。

 ご列席の皆様にはどうぞ今後とも、これまでと変わらぬご指導とご厚誼をたまわりますようお願い申し上げます。本日はまことにありがとうございました。 最後に、本日の葬儀を準備してくださった東葬祭とレニア会のスタッフの皆様、そして、様々な形で、お力添え頂いたすべての皆様に、お礼を申し上げ、私の挨拶とさせて頂きます。

平成27年10月27日
医療法入社団レニア会 副理事長/理事長代行
武谷 典子

【喪主挨拶】きよせの森コミュニティクリニック 副院長
武谷 亮

 ご挨拶
 遺族を代表いたしまして、皆さまにひとことご挨拶を申し上げます。

 本日は、ご多用にもかかわらず、故人を偲びお別れ会にご参列賜り誠にありがとうございました。お陰をもちまして式は滞りなく相すみました。

 生前はひとかたならぬご厚誼にあずかり、故人もさぞかし皆さまのご厚情を感謝いたしていることと存じます。

 誠にありがとうございました。

平成27年10月27日
きよせの森コミュニティクリニック
副院長
武谷 亮


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