医療法人社団レニア会理事長であられた故武谷ピニロピ先生は去る8月8日御逝去されました。すでに密葬の儀を近親者のみで済ませ、本日は病院葬という形でレニア会の職員ならびに生前ご厚誼を賜った方々でピニロピ先生を偲び、ご冥福をお祈りしたいと存じます。なおわたくしはレニア会に理事という立場でレニア会とのご縁を得ており、大変僭越ではありますが、葬儀委員長を務めさせていただくこととなりましたので、よろしくお願い申し上げます。またご参列の皆様にはご多様にもかかわらずご会葬いただきありがとうございました。なお本日10月27日は先生の誕生日であります。御在天の先生はすでにお年をとることはありませんが、今日の日をどのようにお迎えになられているのでしょうか。
さてピニロピ先生はかねてから療養中とお聞きしておりましたが、改めて先生の訃報に接しますと齢95歳という天寿を全うされたとはいえ、誠に惜しみても余りあるものであります。今更ながら先生の偉大さを痛感いたし、レニア会の職員一同にとってかけがえのない財産を失ったことになり、痛惜の念に堪えません。一方では、レニア会を創設され、66年後の現在、開院当時とは隔世の感があるような病院にまで発展させてこられた先生の筆舌に尽くしがたいご努力と信念、そして数々のご苦労を思いますと、ひたすら感謝と崇敬の気持ちが沸き起こってまいります。
どんな方でも人生はその人特有のものであり、自分では図りがたい運命というものがあります。しかしながら、ピニロピ先生ほど波乱万丈な運命をたどった方は滅多にはおりません。ロシア革命と太平洋戦争という世界を震撼させるとてつもないできごとに2度も遭遇し、過酷な運命に翻弄され身を任せざるを得ませんでした。当然ご自身の自由意志で事故の将来を選択できる余地の極めて少ない境遇でしたが、常に自分の人生に真剣に向き合い、自らの手で運命を切り拓かれ、輝かしい人生を完成されました。まさにピニロピ先生が駆け抜けた人生そのものは、創造力のたくましい小説家でも描けないほど起伏に富んだ壮大なドラマでありました。
ピニロピ先生の誕生からして数奇なドラマの始まりを予感させるものでありました。ロシア革命から2年後の1919年に、ソビエト新政権に追われ、ウラジオストックからハルビンに向かう汽車の中で産声をあげました。祖国が定まらない状況でこの世に生を受けたことになります。先生には7人のお姉さまがおられましたが、いずれの方も先生の誕生前にすでに病死していました。祖国を離れた先生のご一家は動乱期にある中国のハルビンに移られ、そこで弟様が生まれました。お父様は日本に単身で渡ったため、先生はお母様と弟との3人で、しばらくハルビンで暮らしました。その後お母様はお父様が住んでいる日本に移られたため、先生は修道院に預けられ生涯修道女としてハルビンで暮らすことになろうとした矢先にまたもや運命の女神の心変わりにより、突然日本にいるご両親のもとに引き取られることになりました。またハルビンでは唯一の身内である弟との死別という悲劇に襲われました。兄弟9人のうち元気に育ったのは先生のみとなり、運命はどこまでも無慈悲でありました。
来日された先生はご両親と会津若松で過ごされ、尋常小学校、高等学校と進み、言葉のハンディーを克服され、勉強でも次第に頭角を現しました。はじめは教師の道に進むことを考えていたようですが、親友の突然の死別という悲運に衝撃を受け、将来を医学に捧げる決意をされました。先生はこれまでの何回となく無常な運命に打ちひしがれてきました。何とか人間の英知で過酷な運命の定めに抵抗し、克服できないかと悩みぬいた末に、医師となり病気で悩める人を救済することが自分の天命と悟られたようです。医学を学ぶことにはお父様の猛烈な反対に会いましたが、先生の意思と情熱は父親の反対にも屈しないほど強固なものでありました。
先生は難関である東京女子医専に見事合格され、医学の勉強に没頭されました。1943年、まさに日本中が戦争一色に染まっていた時期に卒業され医師としての人生を歩み始めました。その翌年大変ご高名な物理学者、武谷三男博士と結婚されました。しかし二人の門出は戦争中ということで、多難な新婚生活を送られ、ご苦労は創造を絶するものであったようです。
先生は順天堂病院で眼科学を研修するかたわら清瀬の東京病院で手術の手伝いをされ、それがきっかけとなって1949年、30歳のときに清瀬の地で総勢6名のスタッフで診療所を開設することを決断されました。開院のための資金繰りには大変苦労されたとのことであります。診療所は眼科を標榜していたが、虫垂炎の緊急手術をはじめあらゆる救急を受け付けました。地域住民の医療の要求に応えるべく身を粉にして昼夜を問わず働き続けました。先生は患者を救うということを何事にも優先させる姿勢を生涯貫かれました。
1957年、木造2階の入院棟を増設、1965年には26床となり病院に格上げされました。 1967年、鉄筋の2階建ての新病棟完成、スタップは68名となり、1975年、鉄筋の 3階建て病棟が完成し、短期間のあいだに小さな診療所を地域には欠かせない病院に発展させました。先生は必ずしも病院を大きくすることを目指されたわけではなく、地域医療に貢献したいという一途な思いが地域住民からの信頼を得て、結果として病院の規模が拡大したものであります。
病院の発展は得てして巧妙な病院経営戦略が前提となります。しかしながらピニロピ先生は経営にまったく無頓着で、貧しい患者さんからは医療費をとらず、逆に薬を無料で提供されていました。生活が苦しい時に医療費の支払いを免除された患者さんが、後に病院前の道路を無料で整備するといったこともあったと伺っております。また診療時間帯を患者の都合に合わせ、患者の家族、生活にまで細やかな配慮をされていました。このため病院は大盛況であったが、経営は綱渡りであり、私生活まで犠牲にされました。まさに医師と患者の本来あるべき関係が築かれていて、医は仁術ということを行動でもって体現されていたといえるものであります。
先生はいかなる時でも自分の置かれた環境の中に魅力や面白さを積極的に見出す才能、 適性がありまた意志強固、意地っ張り、妥協をしないということが先生のご性格として語られております。医療人としての痛ましいほどすさまじい職業意識が先生のあらゆる行動を支配しており、それにいささかとも反する考えは自他共に容赦しなかったというものであります。そのような行動原理が周囲から先生のご性格としてみられていたのでしょう。 先生の生き方は誠に明快であり、医師としての理想像を追求されたといえるのでしょう。 当時の武谷病院の理念である「私たちは医の良心のもとに清瀬の人々が安心して眠ることができる病院を作る。」ということは、単に目指すべき目標ではなく、先生の生き様そのものでありました。さらに先生は常日頃「腕がたっても奢るなかれ」「患者を治すと考えるべからず」「知識をたゆまず身につけろ」ということを肝に銘じておられました。常に漫心を戒め、謙虚に学ぶという姿勢を自らに課しておられたのであります。
先生は職業人としての厳しさを求める一方、職員に対しては情愛をもって接してこられました。職員の福利を優先して自分は後回しにするということがしばしばであったとうかがっております。レニア会の発展の背景には、とにかく患者本位の医療を追求するということとともに、先生の職員に対する思いやりによって、職員一同が病院のために力を尽くすことに駆り立てられたということがあったのでしょう。さらに先生はどんな人でも一心に立ち向かえば、無限の可能性が開けてくることをお教えいただきました。
さてピニロピ先生が設立されたレニア会は、はじめて先生不在で歩んでいかなければならないという大きな試練を迎えました。私どもはとてつもなく大切な方を失いましたが、先生は行動でもってこれから私たちの進むべき方向を示してくれました。医療人としての先生の生き方そのものが、これからレニア会を支えて行く職員にとって大変貴重な道しるべになるものであります。その意味ではレニア会が存続する限り先生の魂は生き続けることになります。これからはピニロピ先生がいつも見守って下さるという思いで、レニア会を支え、さらに発展させていくことがあとに残されたものの使命であります。
最後になりますが、医療人とはかくあるべきということを、身をもって示された先生の生き方や地域医療に身を粉にして尽くされた偉大な功績をたたえ、先生の御霊の安らかならんことをお祈り申し上げ、病院葬にあたってのご挨拶といたします。
平成27年10月27日
医療法入社団レニア会 理事
独立行政法人 労働者健康福祉機構 理事長
葬儀委員長
武谷 雄二