福島民報の「ふくしま人」でレニア会創業者である武谷ピニロピについて掲載されました。ピニロピが幾多の困難にもめげず、自らの道を切り開いた軌跡を辿る記事になっています。読者からはNHKの朝の連続テレビ小説のような生涯だと反響がありました。以下、記事の全文です。
医療法人社団レニア会が運営する4つの医療施設のひとつ、東京・清瀬市のきよせの森コミュニティクリニックは池袋から西武池袋線に乗って清瀬駅で降り、北口から徒歩5分のところにある眼科クリニックである。創業者は武谷ピニロピ。名前でわかるように生粋の日本人ではない。なぜ、この女医を「ふくしま人」に紹介することにしたのか。東日本大震災による原発事故から10年、昨年から人類に苛酷な匕首(あいくち)を突きつけてきたコロナ禍。後に言及することになるが、ふたつの大きな命題を背後に潜ませながら、医療従事者として地域医療に捧げたひとりの女医の波乱に満ちた生涯を描くことにする。
私が女医・武谷ピニロピの存在を知ったのは、十数年前に読んだ郷土史家・宮崎十三八著『手作り会津史』である。その中の「女医レニヤ~会津で育った金髪の美少女」というタイトルのエッセイが強く印象に残り、彼女のことをもっと調べてみようと思い立った。その書き出しの一部を引用してみる。「私が小学校六年の頃、世の中にこんなに美しい女の人っているのかしらと思ったほど、魅力的で美しいあこがれの女性がいた。(…中略…)豊かな金髪を三ツ編みにして、長身のすらりとした姿で颯爽と町を歩く女学生は、鼻たれ小僧や悪ガキ共が口をあけたまま見送るお姉さんであった。いわば青春の芽生えの思い出である。大正生まれで、昭和十年頃の若松を知っている人ならば、一、二度はこの美しい少女に出会ったことがあるだろう。当時若松駅前通りの石炭店の裏や穴沢病院が建つ前の外人館に住んでいた白系ロシア人の娘さんで、レニヤさんと呼んでいた。(…以下略)」このエッセイをもとにした一文が司馬遼太郎氏の推薦で1994(平成6)年9月号『文藝春秋』巻頭随筆に「城下町のロシア少女」として掲載された。
1917年10月、ロシア革命が起こり、世界で最初のプロレタリア政権の社会主義国家が誕生した。帝政ロシア・ロマノフ王朝が崩壊したのである。18年7月には最後の皇帝ニコライ二世一家が処刑された。ピニロピの父、ミハエル・スワチキンはバルチック艦隊勤務を経て、皇帝の侍従武官だった。革命後、ソビエト政権に追われる身となったスワチキナ一家はロシア極東のウラジオストックにたどり着いた。ここから国境を超えて中国東北部のハルビン(哈爾浜)に向かうことにした。その逃避行の列車の中でピニロピが生まれたのである。1919(大正8)年10月だった。その後、ひとつ違いで弟が生まれた。父は仕事を探しに単身、日本に渡り、知人を頼って会津若松で紳士服店を開業することになった。どうして会津若松に行くことになったのか、知人とはどういう人物だったのかはわからない。が私はこう推理する。第一次世界大戦後の1918年4月、日本軍はイギリスやアメリカなどの連合国とともに帝政ロシア軍を応援するために、ウラジオストックに上陸した。シベリア出兵である。出兵した日本軍の中に陸軍歩兵二十九連隊(若松連隊)に属していた会津出身者がいて、その人物がウラジオストックで父と知り合い、会津での仕事を斡旋してのではないだろうか。ピニロピをモデルにした小説『悲しみのマリア』(熊谷敬太郎著・NHK出版)でもそのような設定で物語っている。
ともあれ、父が日本に行った後、母バルバラと弟の三人暮らしの生活が続いた。そのうち、会津での仕事の目処がついた頃、母が日本に呼び寄せられた。ピニロピはハルビンの修道院へ、弟は知人宅に預けられた。ある日、ピニロピのもとに、アメリアに渡っていた腹違いの姉が「父の仕事がようやくメドが立ったので、日本に来るように」との知らせをもってハルビンまでやって来た。修道院を出て、姉と弟と一緒に母が迎えに来るのを待った。しかし、日本に旅立とうした直前、弟が急死してしまったのである。失意のまま、母とともに日本に向かった。八歳になっていた。弟の死は将来のピニロピに医療の道に歩ませようとした要因のひとつになったのではないかと思う。 帝政ロシア崩壊後、スワチキナ一家のように日本に亡命した、おもな白系ロシア人にプロ野球の巨人などで活躍したヴィクトル・スタルヒン(須田博)や大相撲では「巨人・大鵬・卵焼き」の流行語にもなった横綱大鵬がいる。さて、ピニロピと母は朝鮮半島の釜山から連絡船で下関に渡り、列車を乗り継いで郡山に着いた。ここで父の出迎えを受けた。分かれた時はまだ物心がついていなかったピニロピに父の記憶はなかった。初対面といってもいいくらいだった。こうして新しい故郷となる会津若松市での親子三人の生活が始まった。
ロシア革命後、亡命を余儀なくされたピニロピ一家は中国・北東部のハルビンから会津若松に移り住むことになった。父は仕事を求めて一足先に会津若松に来ていて、洋服店を開業していた。ハルビンまで迎えに来てくれた母とともに会津若松に来たが、ピニロピがまだ一歳になるかならない時に別れた父とは初対面といってもいいくらいだった。母がハルビンに迎えに来るまでは「新天地の会津で一家四人の生活を」と心待ちにしていたが、直前にピニロピの一つ年下の弟が急死してしまった。こうして失意の中で家族三人の会津若松での生活が始まったのである。1929(昭和4)年のことだった。
ウラジオストックから鉄道で ハルビンに向かう途中に生まれた彼女にとって、ロシアが祖国と言えるかどうかはわからないが、父は娘の新しい故郷となる会津若松で不自由なく暮らせるようにと、家庭教師をつけてくれた。日本語を身に付けるために習字を習ったが、退屈のあまり先生のスキを見ては教室を抜け出し、裏山に遊びに行くことも度々あったという。そんなピニロピだったが、すぐに近所の子供たちと親しくなった。言葉はうまく通じなくても、そこは子供の世界、人種や国境といった垣根はなかった。
ところで、遊び仲間から彼女は「レニヤ」と呼ばれていた。そのわけはこうである。多くのロシア人は二つの呼び名をもっている。本名の「ピニロピ」は貞淑や純愛を意味するギリシア神話の女神からとったもので、ギリシア系ロシア人の母の希望で名づけられた。そして、もう一つの呼び名が「ゼンヤ」。これも愛を象徴する天使の名前である。おそらく本名のピニロピではなく、愛称の「ゼンヤ」と自己紹介したのだろう。ところが、ロシア語の「ゼ」の発音は日本人にはむずかしく、「レ」にしか聞こえない。そのため子供たちからは「レニヤちゃん」と呼ばれるようになった。後年、医療法人「レニア会」の名称はピニロピの愛称から命名したものである。柔らかな金髪と淡い青グレイの瞳をもったロシアの少女「レニヤちゃん」は会津での生活にも慣れ、たちまち人気者になった。自ら先頭に立って物事を進める統率力を示し始めたのもこの頃であった。しかし、会津弁を覚え、友達との会話も何とか通じるようになってきたとはいえ、これから日本で暮らしていくにはそれ相当の教育を受けなくてはならなかった。会津若松にやって来た翌年の春、両親は高等小学校への編入を願い出た。幸い若松第五尋常高等小学校(現在の市立謹教小学校)に編入できたが、だれも日本語の不自由な彼女の担任になることを嫌がった。そんな中「わたしのクラスで引き受けましょう」と言ってくれた教師がいた。藤井市馬という若い先生だった。
私が武谷ピニロピの存在を知るきっかけとなったのは、郷土史家・宮崎十三八氏の著書だが、宮崎氏は戦後、教育委員会の嘱託にいた晩年の藤井市馬のことをよく知っていたそうだ。その藤井先生の熱心な指導のお陰で、彼女の日本語も上達していった。冬休みが終わり、三学期が始まったある日のこと、突然、先生や同級生が話していること、黒板に書いてあることがまるで霧が晴れたみたいにスーッとわかるようになったという。優秀な生徒であることを見抜いていた藤井先生の予想通りだった。言語の障害を乗り越えたピニロピの成長は目を見張るものがあった。同級生たちの証言がある。高等小学校からいっしょに会津高等女学校(現・県立葵高校)に進学した宮部美枝子さんは同窓会会報に次のように書いている。「当時、第五尋常高等小学校の四年生。私は東京から、ピニロピさんはロシアからの引きあげ者でした。偶然同じ日に転校手続きをしたその日が最初の出会いでしたが、その時彼女は全く日本語が話せませんでした。故藤井市馬先生が担任を引き受けて五十音から教えられ、彼女は頭脳明晰で、たちまち日本語がペラペラになり、会女の入学試験も大変に良い成績であったという事です」
若松第五尋常高等小学校を優秀な成績で卒業したピニロピは会津高等女学校に進学した。日本語を不自由なく使いこなせるようになったピニロピは知識欲が旺盛になり、毎日読書に明け暮れた。図書委員にもなった。才色兼備という言葉があるが、彼女にはこれがピッタリ当てはまる表現としか言いようがない。学校中注目される存在になっていた。後輩の目からはどのように映っていたのだろうか。「その時私は一年生、教室移動の時にすれ違う四年生のレーニヤさんは、ズーズー弁の上級生で私はその金髪に触れてみたくてたまりませんでした」と学年下の佐原ちゐさんという生徒が会報に書いている。
高等女学校でピニロピに影響を与えた教師は少なくなかった。そうした教師との出会いの中で、いずれ教職に就こうと思うようになっていった。最終学年になって家政コースか、進学コースかを選択する際、迷うことなく進学の道を選んだ。女子師範学校に行って教員になろうと考えていた。しかし、ある悲しい出来事が別の道を歩ませることになったのである。
会津ではまだ淡い春の四月初め、私は会津若松市の県立葵高校の正門の前に佇んでいた。例年にもまして早い桜の花が塀に沿って咲いている。長い冬が過ぎ、ようやく陽光とともに心弾ける季節がやってきたのだが、一抹の寂しさを感じさせるのは、春の憂うつというよりは、新型コロナのせいなのだろうか。校名が変わり、校舎も校門もピニロピが卒業した83年前当時の面影はない。ただ手前にある明治四十四年建築の若松栄町教会は昔のままである。登下校の際に彼女たちが目にした風景であろう。
最終学年になって進学コースを選択した彼女は女子師範学校に行って教師になろうと考えていた。しかし、別の道を歩ませることになった悲しい出来事とは、同級生の死だった。この連載に際して底本にしている『武谷診療所―武谷病院―きよせの森総合病院55年』(「55年」編纂プロジェクト著)、以下『55年史』によれば、いっしょに女子師範に行って立派な先生になろうと誓い合っていた仲の良い友人が結核で亡くなってしまったことに彼女は強い衝撃を受けたという。幼くして亡くなった弟のことも脳裏をかすめた。命の儚(はかな)さを実感した。これまで学校で学んできた英知とは人類の幸福を実現するためにあるのではないか。そう考えた彼女は、人の命を救う医者になろうと決意した。ところが、思わぬ壁が立ち塞がった。父の猛反対に遭ったのである。夫に仕え、しっかりと家を守る、それがロシアの女の務めだという。当時の日本でもそういった風潮があったが、父はロシアの古い道徳を持ち出して、ピニロピが医学の道に進むことを許さなかった。帝政ロシアの軍人だった父が頑固なら、その血を受け継いだ娘も負けてはいない。一度決めたら梃子(てこ)でも動かない彼女の決意に父も渋々ながら承諾した。どこの国でも、父親は娘には弱いのである。とまれ、すでにどんなことがあっても信念や主張を変えないピニロピの芯の強さがうかがえる。
こうして、1938(昭和13)年春、会津高等女学校を首席で卒業して難関の東京女子医科専門学校(現・東京女子医科大学)に入学した。娘が医師になることにあれほど反対していた父の部屋から「あっぱれ露西亜少女、会津女学校を首席卒業。この度、難関・女子医専に見事合格」と掲載された地元紙『会津日報』のスクラップが発見された。
ところで、ピニロピの多感な会津高等女学校時代の印象はどうだったのであろうか。後年、彼女は会女高同窓会会報『松操』平成5年11月1日号「乙女たちは、今…」の欄に寄稿している。多少長めだが、一部を引用してみる。
武谷ピニロピ(本科二十九回)
「昭和13年に会女を卒業、同年に医学を学ぶため、会津の山々を後に上京し、早くも55年の歳月が流れてしまいました。振り返ってみますと、世界大戦の波が日本にも上陸、東京は食生活が詰まり東京の街並みも荒廃していきました中、皆、辛さを噛み殺して生きて居りました。その間も会津の自然の思い、人の心の暖かい会津を懐かしんで頑張りました。小田山・飯盛山・柳津の川遊び、いたずらの性格で、ミンミン蝉を一杯に詰め込んで汽車の中で鳴かせたり、思い出が尽きません。医者の道を歩んでおります今、なかなか会津をたずねる機会が無く、同期の方々が心配して下さって会津のニュースを知らせてくださいます。昔の会津若松、昔の会女が昔のままの形で心の中に生きております。(中略)多くの先生方が懐かしく思い出され、感謝がこみあげるばかりです。時代の流れで若松市も近代風に変わり、会女も会津女子高になりました。同窓会も多人数で繁栄して居ると聞きます。若い人達の高度な教育の場で有りますことを祈っております。(旧名 スワキチナ・レニヤ)」
ピニロピが高等女学校在学中 の日本は激動の最中にあった。彼女が卒業する二年前の1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校が首相官邸や警視庁などを襲撃するという二・二六事件が発生した。翌年7月には満州を支配下に置いていた日本軍がさらに勢力を拡大、北京郊外で中国軍と武力衝突(盧溝橋事件)し、日中戦争が始まった。卒業したその年には国内では国家総動員法が公布され、戦争へと突き進んだ。そうした暗い時代背景の中、ピニロピは進学のため上京したのである。
1938(昭和13)年春、会津高等女学校(現・県立葵高校)を首席で卒業して難関の東京女子医科専門学校(現・東京女子医科大学)に入学したピニロピの東京での学生生活が始まった。入学当初、女子医専の六人部屋の寮に入寮した。軍事色に染まりつつあった日本で、欧米人への風当たり強まり始めていた。青い目に金髪の外見だけではロシア人もアメリカ人も区別がつかない。しかも外国人でありながら、訛り丸出しの会津弁を話す彼女は不思議な存在だった。雑用を言いつけられるなど、いじめの対象にもなった。消灯後、押し入れにランプスタンド持ち込んで勉強することもあった。こうした境遇にも負けず嫌いの彼女はくじけることはなかった。ただ「このままではいけない」と思った。その年の秋、寮を出て下宿に移った。大学でも優秀で、集中して勉学に励んだが、苦手な授業があった。解剖の実習である。後に医師になってからもしばらくは手術が怖かったそうだ。
ガリ勉タイプのピニロピだったが、恋に憧れる年頃の娘に変わりはない。やがてその憧れが現実のものとなった。その相手とは同級生の紹介で知り合った武谷三男という新進の理論物理学者だった。武谷三男の名前は団塊世代の私が学生時代に左翼学生に理解のあった学者として知ることになるが、その武谷は芸術にも造詣が深く、学習サークル「ロマン・ローランの会」を主宰していた。いつしか二人は恋愛関係に発展していった。ピニロピが女子医専を卒業して、墨田区深川の同愛記念病院神経科に勤務し始めた1943(昭和18)年に武谷からプロポーズを受けた。翌年1月、個性の強い二人は結婚した。ピニロピ24歳、武谷32歳だった。新婚生活は武谷が一人暮らしをしていた西武池袋線・桜台駅近くの借家でスタートした。しかし、5月に武谷は特高警察 に逮捕されてしまった。武谷は当時、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹や同じく受賞者の朝永振一郎らの共同研究者として原子核、素粒子論を研究していた。戦時下では理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発にも関わっていた。しかし反ファッシズムを標榜する雑誌「世界文化」に参加し、日本の敗戦を公然と予言、アメリカが完成させていた原子爆弾の脅威を科学者の立場から訴えていたことが逮捕の理由だった。仮釈放されたのは九月に入ってからである。
1945(昭和20)年8月15日、日本は終戦を迎えた。武谷は素粒子の研究を再開するとともに、「ロマン・ローランの会」も復活。研究者、音楽家、画家などを志す多くの若者が武谷家を訪れ、そのまま借家に寝起きする者さえいた。ピニロピは翌年、恩師の宮本教授から順天堂病院の眼科を紹介されて勤務するようになった。その頃、教授は都下清瀬村の東京病院で結核患者の手術を手がけていた。勉強のために手術を見学するように勧められ、週一回、清瀬に通い始めた。東京病院は清瀬駅から歩いて約20分のところにあった。池袋から電車でわずか30分の場所にありながら、のどかで牧歌的な清瀬村がすっかり気に入ってしまった。そのうち小さな診療所を開業したいと思うようになった。
ある人の紹介で知り合った老人の土地を借りることになった。清瀬駅から歩いてわずか五、六分の小金井街道に面した、雑木林のある武蔵野の面影を残す場所だった。開業といっても蓄えもなく当時のお金で25万円の建築資金をどうするか苦慮した。アメリカ・ボストン在住の姉に相談した。ハルビンから会津にいる両親のもとに連れて来てくれた、父の先妻の娘である。彼女は何と四100ドル、当時の為替レートで14万円もの大金を用立ててくれた。残りは当時としては貴重なアメリカ製タイプライターなど自分の持ち物を処分してお金に替えた。1950(昭和25)年四4月17日、念願の武谷診療所を開設した。開院の準備に追われていた前日の深夜、痙攣(ひきつけ)を起こした赤ん坊が担ぎ込まれてきた。まだ片付いていない診療室で治療を施し、無事に赤ん坊は母親に背負われて帰って行った。患者第一号である。波乱の人生を送った彼女らしいスタートだった。開業したものの果たして患者さんは来るのかどうか、六人のスタッフとともに不安を抱えての開院当日、玄関には診察時間を待つ17人もの患者が列を作って並んでいた。診療所だけの収入では採算が取れないだろうと思って午前中は診察、午後はまだ籍のあった御茶ノ水の順天堂病院に勤務したが、清瀬と御茶ノ水往復は三年間で断念し、診療所に専念することにした。しかし、その後は順風満帆とはいかない人生が待ち構えていた。
戦後まもなくの東京・清瀬村には東京病院を始め、大きな病院が多くあったが、いずれも「不治の病」とされていた結核専門の医療機関だった。そのわりには地域の住民が気軽に受診できる病院は一軒もなかった。眼科専門の診療所としてスタートした武谷診療所だったが、次第に「年中無休、全科治療のコンビニエンス医院」としての役割を担わせられることになり、地域医療の中心となった。開業当時の逸話である。診療所に小さな盗難が相次いだ。緊急食料として保管しておいたパンや惣菜がいつの間にか少しずつ減っているのである。薬局の薬もなくなってしまうことも多かった。不審に思った職員が監視していると、ピニロピ院長が往診や帰宅する時に持ち出していることがわかった。毎日の食事もままならない患者や薬を買うお金のない患者の家にこっそり届けていたのだった。こうした彼女の行動が武谷診療所の評判を高めた。
1954(昭和29)年に内科・小児担当医を増員し、2年後には外科・整形外科・皮膚科を増設。65年になると病床数105を擁する武谷病院となった。
病院での多忙な日々を過ごす中、ピニロピの気がかりは会津に暮らす年老いた両親だった。それでは両親はどこにすんでいたのだろうか。手がかりは私の同級生の金井晃氏と彼の友人である湯浅敬氏の小学校の頃の回想にあった。二人によると、両親の自宅は会津若松駅に近い大町通りのある理容店の手前の路地を東に入った突き当りにあったという。木造平屋建て自宅の玄関に「スワキチン・ミハイル」の白い陶板の表札があった。ピニロピの勧めで東京に転居する日、金井家に引越しの挨拶に来た。偶然、東京行きの夜行列車に金井氏の父も乗り合わせたので印象深かったという。両親を東京に呼び寄せた後 の1956(昭和31)年、ピニロピは母校、会津女子高の文化祭で講演する夫・武谷三男に同行した。久しぶりの帰郷である。武谷は「原子力と平和」の演題で講演した。その際、当時のお金で一万円を寄付した。ピニロピが在学中、図書委員だったこともあって、学校ではこのお金を基に図書館にレニア文庫(現在は閉鎖中)を設けた。その時であろうか。連載第一回目に掲載のピニロピの高等小学校卒業記念写真に一緒に写っていた幼馴染の松川(旧姓中村)いとさんの家に立ち寄っている。私の友人でもある息子の松川隆一氏はまだ幼稚園生だったが、玄関先にタクシーを止めて、懐かしさのあまり二人で手を取り合って泣いていた光景を覚えている。「母が外国映画に出てくるような女優と抱き合って会津弁で話す姿は、子供心に不思議な感じでとても印象深かった」と語る。
さて武谷病院だが、日本経済が急成長を遂げると同時に病院も発展し、1993(平成5)年には医療法人社団レニア会を設立、初代理事長にピニロピ院長が就任した。しかし、これまで順風満帆だったわけではない。1982(昭和57)年に雇用した四十歳代の女性視能訓練士によって病院は混乱を招いた。彼女は企業つぶしの新左翼系労働組合から送り込まれた運動員だった。地域医療に従事するあまり、病院経営に疎かったピニロピ院長の人の良さ、脇の甘さが災いした。赤字経営と労働争議という二重苦に悩んでいた武谷病院だったが、何とか難局を乗り越えた。
現在、医療法人社団レニア会が運営しているのは、以下の四つの医療施設である。
ピニロピは晩年、院長も理事長職も後進に譲り、2015(平成27)年8月8日、会津絵ろうそくの炎が花模様を浮き出しながら消えるように、95年の生涯を閉じた。新型コロナウイルスの感染が広まってから2年、「明るい未来のエネルギー」と信じ込まされてきた原子力の安全神話が崩れた東日本大震災から10年。女医ピニロピと地震国での原子力発電に警鐘を鳴らしていた夫・武谷の目に日本の現状はどのように映っているのだろうか。
福鳥民較が読者からの投稿を掲載する「みんなのひろば」で棗近よく話題にのぼる女性がいる。青春時代を会津若松市で過ごしたロシア人医師の武谷ピニロピさん(1919~2015年)だ。本紙連載「ふくしま人」に、4月から5月にかけて登場した。幾多の困難にもめげず、自らの道を切り開いた彼女の人生からは学ぶことが多い。郷土の誇りとして、顕彰の機暉を盛り上げたい。
ピニロピさんはロシア革命後の混乱期に生まれ、十歳で日本に渡った。会津若松市の高等小学校に編入したが、当時は「さよなら」しか日本語を話せなかったという。そのような彼女を国回が支え、本人も努力で応えた。会津高等女学校(現葵高)在学時、一緒に教師を目指していた友人が病死する。これが転機となり、「英知とは人類の幸福を実現するためにあるのではないか」と医師の道を歩む。東京都清瀬村(現清瀬市)に武谷医院を開設してからは地域医療に生涯をささげた。医院から薬や食料をこっそり持ち出し、貧困世帯に届けていた逸話も残る。読者からは「世界中がコロナ禍の今、私たちもめげずに一歩一歩前鵜して行かなければと感じます」などと投稿が寄せられた。「NHKの朝の連続テレビ小説になりそうなドラマチックな生涯」との声もあり、中には清瀬市で本人に診察を受けたという人からの体験談も届いた。連載終了から一カ月が過ぎ、会津では講演会の企画が持ち上がっている。投稿にもあるように「ドラマ化できないか」との期待も高まる。ぜひ、母校の卒業生はじめ関係者で実現に向けた活動を展開してほしい。彼女の夫は物理学者の故武谷三男さんだ。ノーベル賞を受けた湯川秀樹、朝永振一郎両博士の共同研究者として知られる。女医と学者が織りなす物語は全国的に注目を集めるだろう。ピニロピさんを顕彰する輪が広がれば、清瀬市との新たな交流も見えてくる。会津や本県に対する都民の関心を高めさせる絶好の機会になるのではないか。交流人口や関係人口の増加は、観光や産品の販路拡大など幅広い分野で好影響を生み出す。
会津若松市は郷土や日本の発展に尽力した偉人を大勢輩出してきた。地元には顕彰団体が数多く組織され、その功績を今に伝える。先人の成功談の裏側にある失敗や努力は、人材育成、産業振興などに生かされている。ピニロピさんの人生は末永く語り継がれるのか。市民らの熱意にかかっている。(角田 守良)