1919(大正8)年 10月 |
ロシア・ウラジオストックからハルビンに向かう列車の中で生まれる。 |
---|---|
1929(昭和4)年頃 | 日本で紳士服店を開業する父を追って、母・姉と共に日本へ渡り、福島県会津若松にて暮らす。会津女学校(現県立会津女子高校)を卒業後、単身上京。 |
1942(昭和17)年 9月 |
女子医専(現東京女子医大)を卒業。 |
1944(昭和19)年 | 理論物理学者・武谷三男と結婚。 |
1946(昭和21)年頃 | 恩師・宮本忍教授から順天堂大学病院の眼科を紹介されて勤務。 その頃、宮本教授が清瀬の『東京病院』に勤務していたため、清瀬に通い始めた。 |
1950(昭和25)年 | 東京・清瀬村 (当時)にて診療所を開設。 |
2000(平成12)年頃 | 81才になり、次第に病院の運営を武谷典子副理事長に任せるようになる。 |
2015(平成27)年 | かねて療養中のところ、8月8日午前11時20分に永眠。享年95歳。 |
ロシア革命を逃れてさまよう亡命の旅のさなかに産まれた、実在の白系ロシア人女性をモデルに描く感動の巨編。困難な状況を克服して日本に亡命。戦前・戦後の混乱期を生き抜き医学を志し、「医師としての本質」を体現するまでの女医となる半生を、城山三郎賞受賞作家・熊谷 敬太郎氏が書き下ろす、畢生の超大作。
ピニロピは1919(大正8)年10月、父が帝政ロシアの軍人だったため一家はソビエト新政権から追われる身となり、亡命途上ウラジオストックからハルビンへ向かう列車の中で誕生しました。
1929(昭和9)年頃、先に日本へ渡り紳士服店を開業した父は一家を日本へ呼び寄せ、会津若松に移り住みました。会津では「レニヤちゃん」と呼び親しまれたピニロピ。幼少時の呼び名であった「ゼンヤ」というロシア語の発音は日本人には難しかったため「レニヤ」となったようです。レニア会の名前はそのエピソードに由来しています。
日本の小学校へ編入したピニロピは初めは慣れない日本語に戸惑いましたが、持ち前の向学心で言葉の壁を克服し会津女学校へ進学しました。進学当初ピニロピは教師の道を考えていましたが、同級生の病死をきっかけに医学を志すようになりました。猛勉強の後女子医専に合格し、会津女学校を主席で卒業。単身上京し女子医専での勉強に専念しました。
卒業後の1943年、同愛記念病院・神経科に勤務。同年に学生時代に学習サークルで交流のあった科学者・武谷三男と結婚しました。しかし間もなく夫は特高警察により逮捕、日本の敗戦を公然と予言しすでに当時アメリカが完成させていた原子爆弾の脅威を科学者の立場から訴えていたためでした。「鬼畜米英」と同じ「紅毛碧眼」の容姿をもつことに加え「国賊」の妻であるとして周囲からの冷遇に堪え、ピニロピは夫の釈放を気丈に待ち続けました。戦時下は食糧配給も途絶える苦しい生活でしたが、夫の釈放後に誕生した長男と3人、終戦の日を迎えました。
戦後、夫武谷三男氏は立教大学の教授、ピニロピは順天堂大学病院の眼科医と夫婦そろって本職に復帰しました。ピニロピは恩師の手術に立ちあうため度々通った清瀬村を気に入り、1950年春、清瀬に土地を借りて「武谷診療所」を開設しました。当時清瀬村には結核専門の大病院を除けば病院が皆無であったため、当初眼科専門だったピニロピの診療所にはケガや風邪の患者が列を作るようになり、地域医療の中心となっていきました。ピニロピは忙しい診療の間を縫って往診に訪れた農村の公衆衛生の向上にも努めました。「身体各部の健康状態は眼球に現れる。」と根本的な治療に全科治療の必要性を求めたピニロピは徐々に専門医を招き、総合病院として体制を整えていきました。
地域医療の中心として成長したピニロピの診療所は、1999年、医療法人社団レニア会 武谷ピニロピ記念 「きよせの森総合病院」として新たな運営を開始、ピニロピはレニア会初代の理事長に就任しました。就任後も変わらず医師として専念したピニロピですが次第に病院の運営を離れ、2015年8月兼ねて療養中のところ、眠るように息を引き取りました。享年95歳、医療に身を捧げた生涯でした。